旅の途中で、思いもかけない出会いに遭遇することがある。日本画家の東山魁夷さんとの出会いも偶然だった。一度目は中国の老舗ホテル『北京飯店』のロビーで。二度目は成田空港到着ロビーで入国手続きの列に並んでいた時に。 私の前に並んでいた、品の良い老夫婦が東山魁夷さんご夫妻だとすぐに分かり、私から話しかけた。長い待ち行列に飽きていたのか、気さくにいろいろな旅の話をしてくれた。
そのときに伺ったドイツの小さな街の話が、一番印象に残った。若き日の東山さんが留学し、その後も何度も奥様と訪れ、一番多くのスケッチを残された場所。それがローテンブルクとハイデルベルクとのこと。それ以来、いつか私もその小さな街に行って、東山さんが眺めた同じ景色を、この目で眺めてみたいと思い続けた。
別れ際、記念に東山さんのサインをいただいた。手元に紙がなく、思わず持っていたパスポートの査証欄にお願いした。後日、外務省宛に始末書を書かされる羽目になったけれど、忘れ難い思い出として、今でも私の机の引き出しに大事にしまってある。
【ローテンブルク】
ロマンチック街道の中程にある、城壁で囲まれた小さな街。東山魁夷が20代の半ばにドイツに初めて留学した際、彼の心をとらえて離さなかった街。ある本に、この街についてこう書いている。「私にとって故郷とも言うべき響きを持つこの名」、「この郷愁の街は、私にとって青春の日の象徴である」と。いつしか、私も彼の見た景色を追っていたようだ。
➀ いつものように、この街で一番高い市庁舎の塔に上った。遠くに連なるバイエルンの山々、赤い屋根の中世の街並み。真下のマルクト広場はクリスマスマーケットで賑わっていた。東山魁夷も、きっと同じ場所から同じ景色を眺めていたに違いない。
② 1971年製作、「赤い屋根」、東山魁夷 (部分) [1]
➀の写真中央奥に写る小さな時計塔をズームインすると、時計塔の先端の形も、隣の建物の窓の位置も、全く同じ構図が浮かび上がってきた。
③左) 塔の階段から下りる途中、階段の窓から東山魁夷の描いたもう一枚「塔の影」の景色が見えた。左手に見える市議宴会館の時計。その横の二つの窓には、1日7回時計仕掛けの人形が登場して、この街の歴史を教えている。
④右) 1971年製作、「塔の影」、東山魁夷 (部分) [1]
③の写真左に写る市議宴会館屋根の上の塔を、向こう側の家の黄色い壁に、シルエットとして描き込んだに違いない。時計の針は10時20分を指している。
⑤ 街の中心にあるマルクト広場。市庁舎と仕掛け時計のついた市議宴会館に囲まれたこの広場には、小さいけれどあたたかい雰囲気のクリスマーケットが広がっていた。
⑥左) 一年中クリスマス雑貨が買える店「ケーテ・ウォルファルト」の本店。荷台にクリスマスプレゼントをいっぱいに積んだ赤いトラックが目印だ。
⑦右) 店の中に入ると、大きなクリスマスツリーが置かれていた。それをじっと見つめる少女とその父親。私にもこんな時があったなぁと、ふと昔のことを思い出した。
⑧左) ローテンブルクは堅牢な城壁で囲まれた小さな街。その城壁に登って街を一周した。街を守るため10世紀に築かれた石の壁に沿って歩きながら、この街の歴史をあれこれ想像していた。
⑨右) 突然鳴り出した教会の鐘の音に驚いて下を覗くと、向こうから一台の馬車が近づいてきた。 馬車の鈴の音が、教会の鐘の音と重なりあいながら徐々に遠ざかっていった。その瞬間、この街は私にとっても忘れられない街になった。
⑩左) マルクト広場の一角にある『ゲオルクの泉』に目が止まった。大地を荒らし凶作をもたらした竜を退治する聖ゲオルグの像。左の張り出し窓の下、聖母マリア像がある建物がマリアの薬局。今、東山魁夷と同じ構図を見ていると確信した。
⑪右) 1970年製作、「泉」、 東山魁夷 (部分) [1]
私が訪れた時、『ゲオルクの泉』は修復中のカバーに覆われていたが、それ以外は東山魁夷がスケッチした50年前と変わっていなかった。
⑫左) メインストリートに連なるお店のウインドウには、ツリーに飾るオーナメントや木彫りの飾りなどが所狭しと並んでいた。見ているだけで童心に帰る。
⑬右) 街を取り囲む城壁の門から出て駅に向かった。振り返ると、門にはラテン語の言葉が刻まれていた。「歩み入る者にやすらぎを 去りゆく人に幸せを」。東山魁夷が心を奪われ、多くの絵を残した街に別れを告げた。
【ハイデルベルク】
ドイツで最も古い大学のある街。1386年に設立されたこの大学では、多くの哲学者が教鞭をとっていたらしい。ハイデルベルクは過去も現在も学生の街。
⑭ 丘の上のハイデルベルク城を目指して坂道を登った。頂上に着いて振り返ると、そこには古き良きハイデルベルク(アルト・ハイデルベルク)が変わらずにあった。流れる川はネッカー川、架かる橋はアルテ・ブリュッケ橋。
⑮左) 街の中心に立つ聖霊教会(ハイリヒガスト教会)と、その前のマルクト広場。この街一番の華やかなクリスママーケットで賑わっていた。
⑯右) 夜になると、大きなクリスマス・タワーの周りに多くの人々が集まって来た。東山魁夷もこの教会の音楽会へ出かけ、近くの酒場で、そこに集う人々とともにビールを飲んだのだろうか?
⑰ 翌朝、アルテ・ブリュッケ橋を歩いて対岸に渡った。そこから「哲学者の道」に沿ってしばらく歩いた。学生の街、戦争の爆撃から免れた街、美しい古都、哲学者の道。そうだ、この街は京都によく似ている。
⑱ 1971年製作、「緑のハイデルベルク」、東山魁夷 (部分) [1]
きっと東山魁夷も「哲学者の道」を歩き、ハイデルベルク城を振り返って、この一枚の絵を描いたのだろう。「ハイデルベルクを私は緑の色調で描いた。緑は青春の色である。」と記している。
[1]講談社、東山魁夷全集、第6巻、ドイツ、オーストリアの旅、1979年発行
より引用
② 「赤い屋根」、No.22、1971年製作 (部分)
④ 「塔の影」、No.67、1971年製作 (部分)
⑪ 「泉」、No.28、1970年製作 (部分)
⑱ 「緑のハイデルベルク」、No.21、1971年製作 (部分)
4号棟Yさんが地図を作って下さいました。
HP委員会よりの補足説明; 写真と絵との対応が分かりにくそうだと思いましたので、著者の了解を得た上で、写真の対応する場所を示してみました。ご覧下さい。
写真①
写真③ 写真⑰